東京高等裁判所 平成11年(う)1729号 判決
1 論旨は、要するに、<1>原判決は、本件の私文書偽造、同行使の罪に関して、客体たる文書である「一般旅券発給申請書」の作成名義人につき「本件文書の作成名義人は『村上梨奈』という氏名の人物であると解されるところ、この『村上梨奈』なる人物は、紀代の実子である梨奈と氏名等の身分事項は全く同一であるものの、その容貌については、美雪と同一の容貌を備えているという実在しない架空の人物であると解すべきである」旨認定しているが、本件文書の作成名義人は村上梨奈であるから、右認定は誤っており、また、<2>本件申請書には、貼付された写真が作成名義人である村上梨奈のものでなく、別の乳幼児の写真であったという点で内容虚偽の点が存するが、この点はいわゆる無形偽造に当たり不可罰であるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認、法令適用の誤りがある、というのである。
2 関係証拠によれば、次のような事実が認められる(以下の事実は、大筋において被告人及び弁護人も認めており、争いがない。)。
中華人民共和国籍である被告人は、日本において同棲中の同国籍の九が妊娠した被告人の子を中絶させたいとの希望を持っていたが、日本では中絶手術をしてくれる病院を見つけられず、中絶手術を受けるために、を中国に帰国させようと考えた。ところが、には来日後日本で生んで不正の手段により日本国籍を取得させていた女児(戸籍上の氏名「米澤美雪」、平成一〇年一月二二日生。以下「美雪」という。)がおり、同児を連れて中国に帰るためには、同児の旅券を取得することが必要になった。被告人が友人である原審相被告人花形博之に相談したところ、同人の内妻村上紀代が生んだ村上梨奈(平成一〇年五月一日生。以下「梨奈」という。)に美雪がなりすまして、梨奈の氏名等が記載され美雪の顔写真が表示されている旅券を取得し、これを美雪に持たせて出国させようとの相談が被告人、花形、及び村上紀代との間でまとまった。
村上紀代は、花形が被告人から受け取ってきた美雪の顔写真を持って、平成一〇年一一月三〇日、東京都生活文化局国際部旅券課に出向き、一般旅券発給申請書用紙の申請者本人写真貼付欄に美雪の顔写真を貼付し、本籍欄に梨奈の本籍である「東京都練馬区光が丘2丁目7番」、現住所欄に梨奈の現住所である「練馬区田柄4-23-16-302」、生年月日欄に「100501」、所持人自署欄に「村上梨奈 村上紀代(母)代筆」、申請者署名欄に「母代筆村上梨奈」、法定代理人署名欄に「村上紀代」と書き込んで一般旅券発給申請書一通(以下「本件申請書」という。)を作成し、村上梨奈の戸籍謄本等の必要書類とともにこれを係官に提出した。
本件申請書等は外務省大臣官房領事移住部旅券課の審査に回されて、美雪の顔写真が右申請書から転写され、梨奈の氏名等が記載された一般旅券が作成され、同年一二月八日、美雪を抱いて右東京都生活文化局国際部旅券課に出頭した村上紀代に対し、係官において、梨奈の氏名等が記載され美雪の写真が表示されている一般旅券の顔写真と村上紀代が抱いていた美雪とが同一であることを確認した上、右旅券を交付した。その後、は自らも不正に入手した旅券と右梨奈名義の旅券を使って同月一三日美雪を伴って本邦から出国した。
3(一) 検察官は、一般旅券発給申請書の作成及び行使並びに旅券の発給を受けたことに関する右事実は、被告人、花形、及び村上紀代の四名の共謀による有印私文書偽造、同行使、旅券法違反の各罪に該当するとして、要旨以下のとおりの公訴事実で被告人及び花形に対して公訴を提起した。
被告人両名は、及び村上紀代と共謀の上、が平成一〇年一月二二日に出産した女児に村上梨奈名義の一般旅券を不正に入手させようと企て、同年一一月三〇日、東京都新宿区西新宿二丁目八番一号東京都生活文化局国際部旅券課において、行使の目的をもって、ほしいままに、(村上紀代が)外務大臣宛の一般旅券発給申請書の正本用の本籍欄に「東京都練馬区光が丘2丁目7番」、現住所欄に「練馬区田柄4-23-16-302」、生年月日欄に「100501」、所持人自署欄に「村上梨奈、村上紀代(母)代筆」、申請者署名欄に「母代筆村上梨奈」、法定代理人署名欄に「村上紀代」とそれぞれ冒書し、申請者本人写真貼付欄に前記女児の写真を貼付し、もって、有印私文書である村上梨奈作成名義の一般旅券発給申請書を偽造した上、前同日同所において、同課係員に対し、右偽造にかかる一般旅券申請書一通を真正に作成されたもののように装い、前記村上梨奈の戸籍謄本など必要書類とともに提出して行使し、外務大臣に宛て東京都知事を経由して一般旅券の発給を申請し、そのころ、同都千代田区霞が関二丁目二番一号外務省大臣官房領事移住部旅券課に右申請書を回付させて虚偽の申し立てをし、よって、同年一二月八日、前記東京都生活文化局国際部旅券課において、同課係員から、外務大臣の発行した右申請にかかる村上梨奈名義の一般旅券(旅券番号MQ五一七六五七七)の交付を受け、もって、不正の行為によって旅券の交付を受けたものである。
(二) 原判決は、右公訴事実と同様の犯罪事実を認定した上、被告人に有印私文書偽造、同行使、旅券法違反の各罪が成立するとしたが、併せて、(弁護人の主張に対する判断)の項で、「本件文書の作成名義人は『村上梨奈』という氏名の人物であると解されるところ、この『村上梨奈』なる人物は、紀代の実子である梨奈と氏名等の身分事項は全く同一であるものの、その容貌については、美雪と同一の容貌を備えているという実在しない架空の人物であると解すべきである。」「このように本件文書の作成名義人は、紀代の実子である梨奈と氏名等は全く同一であるが、実在しない架空人物の『村上梨奈』であると解されるので、紀代がその法定代理人であるということもなく、本件文書の作成権限を有しないことは明らかである。」旨説示している。
4 そこで検討すると、私文書偽造罪を処罰するのは、文書の受領者その他の関係者が文書の名義人として認識するところとその作成者との間にそごを生じさせないようにすることによって文書の公共的信用を確保するためであり、私文書偽造の本質は、文書の名義人と作成者との間の人格の同一性を偽る点にあると解される。そして、人格の同一性にそごが生じたかどうかの判断は文書の性質や機能からみて文書に期待されていると認められる公共的信用の実質を考慮してされる必要があり、作成者本人が名義人本人であることを前提として作成される文書であるためその間に違いがあることにより公共的信用が損なわれるような文書の場合には、当該文書の内容から認識される名義人の人格が作成者本人を指しているか否かにより右にいうそごがあるかどうかを判断することになる。
これを本件の一般旅券発給申請書についてみると、一般旅券発給申請書は、申請に基づき公的機関による手続が開始され、申請者本人に一般旅券という重要な公文書を発行するかどうかを審査するという公の手続内で用いられる文書であるところ、一般旅券の発行対象について人違いのないように申請者本人の自署等が要求されていることはもとより、申請者本人の写真の申請書への貼付が要求されている。そして、申請書に貼付された写真はこれが旅券に転写され、旅券上に氏名等が記載された本人として表示され、旅券の交付に際しては、出頭した本人の容貌と旅券上の写真との照合がされて同一であることが確認された後、交付される手続となっているのである。このような申請書の性質に照らすと、申請書から認識される名義人の人格を考えるに当たって最も重視されるべきは申請書に貼付された写真であり、貼付された写真によって特定される者が右申請書によって表示された人格ということになる。
ところで、右によれば本件では、本件申請書によって表示された人格は梨奈を名乗ってはいるものの貼付された写真によって特定される「美雪」であり、同申請書は同児名義でしか作成できないものである(もっとも同児には文書作成能力はないから、その法定代理人しか作成ができないということになる。)のに、実際にはこれを「梨奈」において作成しているのである(梨奈には文書作成能力がないから、梨奈に代わってその親権者である村上紀代によって作成されている。)。この間で人格の同一性にそごが生じていることは明らかであるといわなければならない。
5 所論についてみると、原判決が、本件の私文書偽造、同行使の罪に関して、客体たる文書である「一般旅券発給申請書」の作成名義人につき「本件文書の作成名義人は『村上梨奈』という氏名の人物であると解されるところ、この『村上梨奈』なる人物は、紀代の実子である梨奈と氏名等の身分事項は全く同一であるものの、その容貌については、美雪と同一の容貌を備えているという実在しない架空の人物であると解すべきである」旨説示していることは、所論が指摘するとおりである。
しかしながら、右の点は、原審における、本件村上紀代の行為は有形偽造とはならず、被告人についても有印私文書偽造や同行使の罪は成立しない旨の弁護人の主張に対し、原判決はそのような立場を採らないことを明らかにするための説示中の判断において示された法律的な評価にかかるものにすぎない。そして、本件では名義人と作成者との間で人格の同一性にそごがあることは、前記のとおりであるところ、原判決もこれと同一の結論を出しているのである。本件申請書の名義を架空人名義であると評価しているからといって、これが事実の誤認に当たるような性質のものでないことは明らかであり、まして、その評価の違いが判決に影響を及ぼすようなものでないことは明白である。所論は、また、本件では私文書に関する有形偽造は成立せず、無形偽造にすぎないとして、るる主張する。しかし、本件では、村上紀代の行為は、単に内容虚偽の文書を作成したにとどまらず、人格の同一性を偽った文書を作成したもので、有形偽造として私文書偽造、同行使の罪が成立し、これと共謀した被告人が共同正犯としての罪責を負うことになることも明らかである。所論は採用の限りでない。
本件について有印私文書偽造、同行使の各罪が成立するとした原判決は、結論において正当であり、原判決には事実誤認若しくは法令適用の誤りがある旨の論旨は理由がない。
(岩瀬徹 沼里豊滋 波床昌則)